
Q) このシリーズで食品業界の方にお話を伺うのは初めてです。入社を決められたポイントは何でしたか?
A) 最初にお断りいたしますが、私が入社した1987年当時は社名がニチレイであり、2005年分社化によって加工食品部門がニチレイフーズとして独立しました。分社までの出来事については、ニチレイの社名でお話しいたします。さて、話しを入社に戻しましょう。大学時代の専攻が外国語学部の中国語学科で、大学4年生の夏から1年間は中国に留学をしておりました。あの歌のような音楽のような言葉が好きでしたし、日本と中国には歴史上、不幸な状態にあったこともありますが、現在はどんな国になっているのか、日本をどう見ているのか知りたかったんです。
その中国での生活で「医食同源(普段の食事こそが健康な体を作る)」の考えに身近に触れたことから、食品メーカーで働きたいという気持ちが強くなり、帰国後は食品と飲料の会社に絞りこんで就職活動をしました。大学5年生の秋に就職活動を始めたわけですが、
男女雇用均等法が施行された翌年とはいえ、当時はまだ、女子学生となると1年のちがいとはいえ年齢はハンディキャップになっていたのでしょう。ことごとく断られまして、最後の最後に採用してくれたのが弊社でした。「正攻法で行ったらダメだ」と考えた私は、自分のセールスポイントである中国語で、いきなり電話をかけてみたんです。これが大変ラッキーなことに、その電話をとったのが、たまたま一時帰国していた北京の駐在員で、中国語でお話をして「じゃあ、人事に話を通して、連絡が行くようにするから」と言ってくださったんです。
ちょうど上海日冷食品という食品製造の合弁会社を設立する時期にあたっていたことも、いいタイミングだったようです。私自身は営業職に興味がありましたし、国内の営業所に配属されるものと思っていたのですが、1987年に入社し、当時できたばかりの「営業企画室」に総合職として配属されました。これは海外の合弁会社立ち上げを日本本社側からサポートする部署で、エビやタコなどの食材を輸入するための会社はアフリカやヨーロッパ、ブラジルで先にスタートしていたのですが、中国は手探りの状態で、もちろん私は中国の現地法人・上海日冷食品に関する業務に携わりました。

Q) いきなり海外部門からのスタートだったのですね。
A) そこに集まったのは、駐在員経験者や国内にいても海外とのやり取りを行ってきた猛者ばかり。「私みたいな新人がいていいのかしら」と思いつつ、私は中国語の契約書の翻訳とか、中国からのお客様のアテンドや通訳などを主な仕事にしていました。
そんな中で、少しずつ仕事に慣れてきた頃、2年目くらいですかね、各国の合弁会社が動きだして、その業績の報告書を整理・管理する仕事が任されるようになりました。今まで見たことがないバランスシートや損益計算書が送られてきたときには、「何、これ!」と面食らいましたが、見方が分かってくると、すごく面白くなってきたんです。それらの財務諸表から上司たちは経営戦略を練っていたのですが、私も下っ端ながら「経営とは」ということを考えるきっかけを与えてもらいました。ニチレイフーズが世界のどこでどのように事業展開していこうとしているのか、見えてきたんです。
3年が過ぎた時、今度は「海外事業推進部」という、海外駐在員とその家族の庶務を行う、これもまた新しい部署に異動になりました。私の仕事の内容ですが、大使館と連絡をとって出入国のための手続きを行ったり、治安や病気など安全面の情報を集めて送ったりしていました。まだインターネットも普及していませんでしたから、大使館に直接出向いていかないと得られない情報も多かったんです。普通に生活していたら、めったに行けない場所に出入りすることができて、ここでの仕事もとても楽しかったですね。
特に印象深く記憶しているのは、中国で天安門事件が勃発した時のことです。天安門のすぐそばのホテルに現地事務所があったので、駐在員を全員撤退させようということになりました。飛行機が飛ぶかどうかも分からないという状況で、部署の全員が夜中まで社内に詰めて、張り詰めた空気の中、連絡を取り合うということをしました。
海外事業といえばとても華やかなイメージがありますが、やはり現地で仕事をするということは、日本では考えられないようなアクシデントがありますし、楽しいことばかりではなく苦労のほうが多いと思います。ですから、何十人と駐在員がいて、顔の分からない人もいたのですが、彼らの不安が少しでもなくなるように、何かサポートできないかな、と考えながら、手探りの状態で仕事をしていましたね。残っているご家族、とくにお子さんに「お父さんは今こんな仕事をしているんだよ」とお話ししたり、現地でお正月を過ごす人にはお正月用の食品を送ったり、そういったサポートもしていました。
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